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願いを三つかなえてもらえる。しかも相手は、死をつかさどるヤマ。
ここまで聞くと、長生き、お金、家族の幸せ……と候補が浮かぶかもしれません。ところが『カタ・ウパニシャッド』のナチケータスは、最後の一つで、とんでもなく大きな問いを差し出します。
人が死んだあと、その人は存在するのか。
わあ、そこで聞くんだ……! しかもヤマのほうが、別の願いにしないかと持ちかける。答える側までためらうので、単純な「神様にお願いしたら解決した話」にはなりません。
三つの願いは、父との関係を回復すること、天界へ至る火の祭式を学ぶこと、そして死後の存在を知ること。この記事では順番を追いながら、なぜ最後の問いだけが別扱いになるのかを読んでいきます。
筋の確認には、Project Gutenbergで公開されているスワミ・パラマーナンダの英訳『The Upanishads』を使用しました。英訳の区切りではPart Firstが三つの願い、Part Second以降が教えの展開に当たります。以下の日本語は説明のための要約で、日本語訳書からの引用ではありません。
父の贈り物を見た少年は、なぜ死神のもとへ向かうの?
まず押さえたいのが、ナチケータスは最初から「死の秘密を聞きに行こう」と旅立ったわけではない、ということ。
発端は父が行う供犠です。財産を贈る場面で、少年は、その牛たちがすでに乳を出し尽くし、年老いていることに目を留めます。形のうえでは贈っている。でも、相手の役に立つ贈り物なのか。物語は、こういう引っかかりから始まります。
立派な行事の名前が出てきたところで、いきなり難しい哲学になるのではありません。差し出される牛を、少年がちゃんと見ている。ここが入口なんです。
そして父に、自分を誰へ与えるのかと繰り返し尋ねます。英訳本文では二度目、三度目と問う流れがあり、父は死へ与えると答えます。それが、死神のもとへ向かうきっかけになります。
ここを「親に反抗した罰」「父が最初から息子を殺す計画だった」とまで説明すると、書かれている場面を越えてしまいます。父の言葉と、少年がその言葉を受け止める流れを追えば十分。実際の親子の会話のように台詞を盛らなくても、場面そのものに緊張があります。
さらに困ったことに、行き先のヤマが不在です。
会いに来たのに、いない。ナチケータスはそこで三晩待つことになります。帰ってきたヤマは、客であるバラモンの少年を食事なしで三晩待たせたことに対し、一晩につき一つ、計三つの願いを申し出ます。
つまり「三つ」という数には、この物語の中で理由があるんですね。少年が死神を言い負かして勝ち取った報酬でも、どの神様にも共通するお願いの上限でもありません。客を迎えることの重みが、願いの場面につながっています。
英訳ではPart FirstのI〜IXを続けて読むと、牛、父の言葉、三晩の不在、三つの願いが一本につながります。あらすじだけで飛ばすには、ちょっと惜しいところ。少年が何に疑問を持つ人なのかは、最初から描かれているからです。
日本語で本文をたどる候補は、岩本裕編訳『原典訳 ウパニシャッド』。筑摩書房の公開目次で「カタ」の全篇収録を確認できます。三つの願いが出る前の発端から読みたいときにも、該当篇を探せる本です。
第一の願いは父との仲直り。自分だけ助かればいい、では始まらない
最初の願いは、父の不安と怒りがなくなり、戻った自分を父が分かって、迎えてくれることです。
ここで急に、距離が近くなるんですよね。
死神を前にしているのに、まず気になるのは家に帰ったあとの関係。莫大な財産でも、誰にも負けない力でもない。さっき別れた父と、ちゃんと会えるか。その願いから入るので、少年を最初から何もかも超越した聖者のように読む必要はありません。
ヤマの返答にも、父が少年を認めること、怒りが去ること、穏やかに眠れることが含まれます。単に「帰宅の許可が出た」で済ませると、このやり取りの細やかさが落ちてしまうんです。
ただし、ここで一つ気をつけたいことがあります。「父との関係を願った」という筋と、「このあと実際に家へ帰って父とこんなふうに抱き合った」という場面は別です。本文にない帰宅シーンを足さなくても、第一の願いの意味は伝わります。
三つの願いを読み比べるときは、誰に関わる願いなのかを横に書いてみてください。一つ目には父と自分の関係がある。二つ目には天界へ至るための教えがある。三つ目には、人の死そのものをめぐる問いがある。この違いが見えてくると、最後の問いの広がりもつかみやすくなります。
これは読み解くための整理です。本文が三段階の人生訓という名前を付けているわけではありません。順番に意味を感じ取ることと、あとから便利な分類を付けることは、分けておくと読みやすいですよ。
そして、第一の願いを小さいもの扱いしないこと。あとに大きな問いが待っているからといって、父の心配や怒りが消えることが、どうでもよくなるわけではありません。少年は目の前の関係を願いに含めた。その事実を残すほうが、この物語は遠い世界の話だけで終わらなくなります。
日本語の訳文で読むなら、まず第一の願いとヤマの返事までを一組にしてみて。何を頼んだかだけでなく、相手がどこまで応じたかが見どころです。
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第二の願いは火の祭式。ここではヤマ、きちんと教えている!
二つ目にナチケータスが求めるのは、天界へ至る火の祭式の知識です。本文の天界は、飢えや渇き、悲しみなどを離れた場として語られています。
お金持ちになれる火、という話ではありません。現実の暮らしで特定の効果が出る手順としても読まないでください。物語が前提とする宗教的な世界と、その中で伝授される祭式の話です。
ここ、かなり具体的です。
ヤマは祭火について教え、祭壇に用いる煉瓦はどのようなものか、数はいくつか、どう置くか、という説明へ進みます。ナチケータスは、教わったことを言い直して示します。
願いがかなった、はい次! ではないんです。教える側が説明し、学ぶ側が内容を受け取って確かめる。この往復がちゃんとある。三つ目の願いでヤマが答えをためらう前に、「この相手は教える気がないわけではない」と分かる場面でもあります。
さらに、ヤマは追加の恩恵として、その火が少年の名で呼ばれることを告げます。三つの願いの途中に、教えを理解したことへの応答が挟まるので、単なるお願いリストより動きがあるんですね。
読みながら混ざりやすいのは、天界へ至る祭式を学ぶことと、死後の自己について知ることです。どちらも死に関わる言葉が出るので、同じ願いを二回しているように感じるかもしれません。でも、二つ目を教えてもらったあとも、少年は三つ目の問いを出します。
火の知識を得れば、もう聞くことはない。そうはならない。
ここを押さえると、このあとの対話が急に始まった難しい講義には見えなくなります。祭式を学ぶ場面があり、そのうえで、なお残る疑問がある。ナチケータスが求めるものを、本文の進み方に沿って見ていけます。
なお、英訳ページには詩句の訳だけでなく、翻訳者の解説も続けて掲載されています。火の象徴的な意味を説明する段落を読むときは、物語の登場人物が直接述べた内容なのか、解説なのかを意識すると混乱しにくいです。
日本語で祭式の説明と三つ目への移り変わりをたどるなら、「カタ」を収めた訳書の出番。難しい用語を全部覚えるより、二つ目で何を得たのかを先につかむ読み方を勧めます。
第三の願いで、話が止まる。長寿も財宝も代わりにならない理由
最後に少年が問うのは、人が死んだあとも存在するのかということです。あると言う人も、ないと言う人もいる。その疑いを、ヤマから教わりたいと願います。
するとヤマは、神々でさえかつて疑った、容易には理解できないことだとして、別の願いを選ぶよう促します。
えっ。二つ目は教えてくれたのに、ここはすぐ答えてくれないの?
この違いが、この対話の面白さです。願えば自動的に答えが出る場面ではなくなります。知りたい内容の難しさと、少年がそれでも知ろうとする姿勢が、やり取りの中心へ出てきます。
少年は引き下がりません。神々でさえ疑う問題で、ヤマほどの教え手に出会えているなら、ほかの願いで置き換えたくない。英訳本文のXX〜XXIIでは、問いの大きさが、むしろこの相手から聞きたい理由につながっています。
続いて提示されるのが、長く生きる子や孫、家畜、象、黄金、馬、広い土地、長寿などです。さらに音楽や乗り物を伴う享楽も並びます。選べるものが次々に増えていくので、読んでいる側も、そこで何を選ぶかに目が向きます。
それでもナチケータスは、移ろう楽しみも長い命も、自分の問いの代わりにはならないと退けます。財産だけでは人は満ち足りず、長く生きたとしても、死をめぐる疑問が消えるわけではないからです。
ここを「子どもはお金が嫌いだった」とまとめると、話が薄くなってしまうんです。今ほしいのは死についての教え。それを別の品物と交換できるかが問われています。贈り物の豪華さと、疑問への答えが得られることは、同じではないんですね。
また、死の教えを求めることを、本人が死を望んでいる話へ変える必要もありません。冒頭の願いには、父に迎えられることがありました。その流れを忘れずに読むと、知りたい問いを持ち続ける姿が見えてきます。
三つ目の願いを読むときは、ヤマの最初の断り、少年の返答、代わりに提示されるもの、少年の再度の拒否まで、途中で切らずに追ってみて。問いだけを抜き出したときより、「なぜ、この問いなのか」がよく分かります。
その先にあるのは、ご褒美の追加ではなく「何を選ぶか」の教え
三つ目を手放さなかったあと、ヤマの教えはどう進むのでしょう。
英訳のPart Secondは、よいものと快いものを区別する説明から始まります。どちらも人の前に現れるけれど、同じ行き先へ連れていくものではない。少年が目先の楽しみを選ばなかったことが、ここで教えにつながります。
さっきの断り合いに、意味があった……!
単に贅沢を我慢したから褒められた、とだけ読むより、何を求めるかを選んだ場面として前の対話に戻ると、つながりが見えます。ただ、これを「楽しむことはすべて悪い」という生活指導へ広げるのは急ぎすぎです。死について教わるという問いの中で、何が優先されたのかをまず読みたいところです。
さらにPart Thirdには、車のたとえが出てきます。自己であるアートマンは車の主人、身体は車、知性は御者、心は手綱、感官は馬、感覚の対象は道として説明されます。
ここも対応を一つずつ分けると、読みやすくなりますよ。身体を御者にしたり、心とアートマンを全部同じものにしたりすると、たとえの役割が崩れてしまうからです。何を運ぶ車なのか、誰が操り、何が引くのか。図にするなら、まずこの対応だけで十分です。
その後の教えには、生まれず死なない自己についての説明などが含まれます。これは『カタ・ウパニシャッド』が展開する宗教哲学です。現代科学によって死後の存在が実証されたという説明でも、読めば肉体が不死になるという約束でもありません。
三つの願いを知りたい人なら、最初は願いの順番と、三つ目で提示される代案まで読めれば、物語の芯をつかめます。続きが気になったら、よいものと快いもの、次に車のたとえへ。この順で広げると、用語だけが一度に押し寄せる感じを避けられます。
岩本裕編訳『原典訳 ウパニシャッド』は、版元の目次で「カタ」が全篇収録とされています。ただし、この本がウパニシャッドと呼ばれる全作品をすべて収めている、という意味ではありません。ほかの収録篇には抄録もあります。今回は「カタ」を読みたいから、この収録範囲が合うという選び方です。
英訳の説明と日本語訳の言葉が必ず一対一で一致するとも限りません。本の本文をここで読んだものとして語らず、購入を考える場合は編訳者とISBN「9784480095190」を確かめてください。
願いが三つある話なのに、いちばん残るのは、最後まで交換しなかった一つの問い。そこが気になったなら、まず少年が最初に断る場面へ戻ってみて。ヤマが差し出すものを並べて読むと、ナチケータスが何を求め続けたのかが、ぐっとはっきりしますよ。
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出典:パラマーナンダ英訳『The Upanishads』公開本文、筑摩書房『原典訳 ウパニシャッド』書誌・目次。物語の説明は公開英訳に基づき、訳書の紹介は版元の書誌と収録目次に基づいています。